先日、リゲティの《Síppal, dobbal, nádihegedüvel》(2000)より第6曲、第7曲を聴きました。これを聴きながら簡単な分析をしたのですが、私は音楽を学ぶ者として、まだまだ自分には知らないこと、そして身につけるべき力がたくさんあるのだということを痛感させられました。

Síppal, dobbal, nádihegedüvel (2000)より第6曲

この曲は、メゾソプラノと複数のパーカッションというユニークな編成による作品で、第6曲は声がオスティナート(反復)になっている箇所が印象的でした。しかし、最初に聴いたときには、その構造にまったく気づけませんでした。リズムや音型が繰り返されているはずなのに、それが「オスティナート」として耳に残らなかったのです。2度目、3度目で多少は気付きましたが、曲全体にオスティナートがあると思えなくて、和音が変化して色彩感が変わったところで「違うもの」認定をしていました。

これは、おそらく自分の「音に対する瞬間記憶力」がまだ十分に鍛えられていないためだと感じました。ある音型が現れ、それが繰り返されるときに、「あ、これはさっきも聴いたフレーズだ」と即座に認識できるような耳を持つこと。これは現代音楽に限らず、音楽全般を理解していくうえで非常に重要な能力だと改めて実感しました。

また、この曲の最後にはオカリナが使われていたのですが、それを私はオカリナとはっきり認識することができませんでした。聴いていると、「何か笛のような音がするな」とは思ったのですが、それが具体的にオカリナであるというところまでは至らなかったのです。考えてみれば、私は普段からオカリナの音色を意識的に聴く機会があまりありませんでした。やはり、どんなに珍しい楽器であっても、一定の知識と経験がなければその音を的確に認識することは難しいのだと感じました。つまり、楽器の音の知識や音色の引き出しを増やしていく必要があるという課題の一つです。

さらに、このように現代的で実験的な作品であっても、よく耳を澄ませてみると、どこかに機能和声的な響きの「片鱗」が感じられる瞬間があることにも感動を覚えました。20世紀から21世紀にかけて、多くの作曲家たちが従来の調性や形式から解き放たれた音楽を追求してきたわけですが、それでもなお、和声的な感覚や伝統的な構造に通じる要素が残されていることに、どこか人間らしさや音楽の根源的な美しさを感じたのです。やはり基本は和声にありと。

このように、一見すると自分とは遠い存在に思える現代音楽の中にも、学びの種や感動がたくさん詰まっているということを、リゲティのこの作品を通して深く感じることができました。もっと耳を鍛え、知識を広げ、音楽をより深く味わえるようになりたい――そんな思いを新たにした体験でした。