今日は、聴いて感じることから作曲家の意図を考えてみようというお話です。
まずはベートーヴェンの「荘厳ミサ曲」の第4曲目の話から。
通常、ミサ曲の第4曲目はサンクトゥスといって、ミサの中で信仰を宣言した後に主の栄光を称える部分となっています。その部分は2つに分かれていて、前半は壮大に歌い上げ、後半は静かに褒め歌う作り方がほとんどです。モーツァルトの戴冠ミサ曲(KV317)ではこの2つの部分が別の曲となっていますが、ミサの中では1つのまとまりではあるので1曲で作られることもあります。
今日の話は、この前半から後半にいく部分の話です(こちらから)。曲の雰囲気がグッと変わるのですがそのつながりの部分で完全終止で終わって、休符かな?と思いきやバス音だけが鳴っています。このバス音の意味は?ベートーヴェンはこの2つの部分を1つの曲として作っているので、同じ曲の中とはいえ曲想が変わるので一度終わるのですが、バス音を響かせることでその最後の和音の響きを感じさせるためです。場面転換はあるけれど、繋がっているよ、ということを示すためともいえます。
同じような技法は、モーツァルトのドン・ジョヴァンニにも使われています。騎士長の石像がドン・ジョヴァンニの家に現れる場面の冒頭です。休符で音の空間は作りたいけれど、洞窟の雰囲気を残すために和音を感じさせておきたいという作曲家の意図がよくわかります。
そういうのは紙の上で分析していてわかることではありません。むしろその響きを聴いて理解するものです。その観点からも、音楽を理解するために楽曲分析に取り組むことだけではなく、分析的な耳を持って聴くことが大切になります。
似たような手法はシューマンも使っていて、ダヴィッド同盟舞曲集の16曲目の終わりでFis音がオクターブで残ったまま、間髪を入れず17曲目に入ります。16曲目はh-moll、17曲目の冒頭はDurでHが根音の和音ですが、Fis音を残しておくことでHが主音の和声の第二転回形の浮遊感を与え、同時に同主調の転調をしているということになります。16曲目を短調で完全に終えて、17曲目を長調で新しく始めても曲としては成り立つのにそこにその浮遊感を入れたシューマンの意図を汲んで演奏するためには、楽譜をただ読むだけではなく、その音から感じることから考えることが大切になります。
そのためにも「聴いてわかる」ことが大切になります。
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