今日の話題は私がコンセルヴァトワールで聴講しているCommentaire d’écoute(聴取のコメントという聴いた事を書き取る授業です)の先日の授業の話から気づいたこと。
この日はシューマンの幻想小曲集の中から1つ聴きました。自分で本気で弾いていない曲であっても何十回と聴いた曲ならわかっていそうなのに実は楽曲形式を知らなかったなと思いました。聴いてある程度わかりましたが、普段はそういうことを気にしていないのだなということに気付かされました。
こういったピアノ作品集やロマン派に数多く見られる歌曲集(美しき水車小屋の娘から始まるもの)は Cycle(サイクル)と呼ばれるのですが、それは最初と最後が繋がっているからだと説明されました。
言われてみればシューマンのパピヨンは最終曲の途中から、第1曲の旋律が出てきますし、ダヴィッド同盟舞曲集は最後から2番目にある盛り上がりの曲で第2曲の旋律が出てきてそれが展開されます。そもそもこうした曲集は曲と曲の間が有機的に繋がっていて切り離しにくいですよね。子供の情景も最初は静かに始まって、静かに語りかけるように終わっています。まさに円を描いています。
私がダヴィッド同盟舞曲集をレッスンで習った時、手の大きさは小学校2年生か?という私にはかなり無理な曲がありましたが、曲を飛ばすことは許されず全てやりました。この舞曲集全部で一つの作品だからということでしたが、終わった時にそれは無理もないよなって思いました。
歌曲集だと歌の内容が一つの物語になっていて切り離せないのは一目瞭然ですし、事情があって抜粋ということはあってもそれらの曲の順番を入れ替えて演奏するということは考えないはず。それは実は器楽曲でも同じなのです。
試験という限られた時間の場合は抜粋しての演奏はあり、でも勉強するのは本当は全部やって欲しい。全部学ぶことで曲の魅力がわかります。シューマンの作品の場合は架空の人物、フロレスタンとオイゼピウスの違いも、曲を全部知ることで感じ取ることができます。
制限時間の短い試験で全てを弾かないからレッスンでガッチリできないにしても、全てを聴いてそこからわかること、感じ取れることを吸収して弾くのと、何もせずに弾くのとでは違うはず。
恥ずかしながら幻想小曲集にそういったことを考えていなかったので、今後はそういう意識で曲をみたいと思った出来事でした。
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