和声の勉強法に手応えがない、バス課題が禁則を避けるだけの作業になっている。習った和声はパターンを入れるだけのものだった…。そんな方へ、フランスのコンセルヴァトワールのエクリチュールの授業で実際に行われている「課題を歌う」という方法と、その背景にある思想について考察してみます。
私が大学のピアノ科で受けた和声の授業は、バス課題もソプラノ課題も「パターンで和音の組み合わせを入れる」ものでした。試験に出る課題もパターンに当てはめることでできるもので、規則は覚えたもののパターンさえ分かればできてしまうもの、それが授業の和声でした。
授業中に例や課題の解答を弾いてくださるのを聴いてはいましたが、和声が頭の中で鳴るような感覚はありませんでした。先生からも弾いてみるようにと言われたことはなかったように記憶しています。
その後、1年ほど作曲家の先生に和声の個人レッスンを受けたことがあります。その時はとにかく弾いてみるということはやりましたが、意識して聴くことをどれだけやったのか?とは思います。当時の私がまだ若くて、聴くことの大切さを認識していなかったのはあるかもしれません。
そのレッスンから30年ほど経って、今度は地元コンセルヴァトワールのエクリチュール(écriture。和声・対位法など、作曲の書法をまとめて学ぶ科目)の授業に参加することになりました。ディプロム目的ではないのでエクリチュール単体で授業を受けています。その他にも単体で受けている授業がありますが、それについては後ほど少し触れることにします。
初回の授業に行ってちょっとびっくりしたことと、なるほどという発見がありました。実は、和声が苦手、身につきにくい理由はこの視点が欠けているからかも?となったので、今日のブログのテーマはこちらにしようと思いました。
- 和声が身につかない本当の理由
- バス課題を歌うとは具体的に何をするのか
- 手持ちの課題集で今日から試せるやり方
この3点についてお話します。
和声を勉強しても、音が「聴こえてこない」のはなぜか
音楽の専門学校に行ったら必ずある和声の授業。単位を取らなければならないから仕方なしに受けていたという方もいらっしゃるかと思います。私のクラスメートにも「和声がわからなくたって、感覚で分かればいいじゃん」と言っている子がいました。でも、和声の学びって、その感覚を言語化するもので、感覚に根拠を与えるものなんです。
和声の課題実施のための規則、禁則は知っている。でも自分の演奏に結びつかない。曲を聴いても聴こえ方に変わりがない。そういうことが「和声の勉強は無駄」となる理由ではないかと感じています。
その原因は、和声の授業で習うことと音が結びついていないからなんです。楽譜の上の音を動かすだけで、実際の響きが聴こえていない。弾いてみて音の塊としての響きは聴こえていても、和声の音がどういう風に動いているのかが聴こえてこない。
皆さんは頭の中でカデンツを鳴らすことはできますか?パターンとして示されているカデンツを楽譜を見ただけでイメージできますか?これはソルフェージュ力にも結びつきますが、音の芸術を扱っている以上、和声課題であっても音を鳴らしてみることが大切になります。
和声は国語でいう作文の学びに当たります。国語で文章を書いてみることで書き手の思考経路を学ぶように、和声を学ぶことで作曲家の思考経路を体験していく。それと同時に曲の造りを見ていくための道具を手にすることが、演奏専攻者の和声学習の目的となります。
音楽は音を扱う芸術です。和声をピアノで弾いてみて音にする。これは大切です。音にして初めて響き全体がわかりますし、課題や範例を弾いてみることで和声全体を見通すことができます。
しかし、本当にそれだけで十分なの?と思わされるようなことが、フランスで受けたエクリチュールの授業でおきました。これが欠けているから「聴こえているようで聴こえていない」状態になるんだと実感したのです。
エクリチュールの授業で、「歌って」と言われた
冒頭にも書きましたが、9月が新年度のフランスで、今年はエクリチュールを学ぶことにしました。フランス式で学ぶのが初めてなので、面談の結果、エクリチュールの1年目の授業に入れさせていただくこととなりました。ですから、他の学生は和声課題に触れるのは初めてという人がほとんどのはずです。
私自身、フランス式での学習は初めてということもあり、また、和声を体系的に学んだのが30年前ということもあり、知っているようで知らないこともあるだろうし、色々忘れているのは間違いないということで、このクラスは納得です。
またエクリチュールなので授業の内容は和声だけではなく、簡単な作曲もします。和声に基づいてメロディーを作る、その作り方が規定されているといった感じです。こちらは初めてなので学びが深まりそうです。
授業でいきなり起きたこと
和声課題をやる時に「あ、なるほど」と思ったことがあります。
先日の授業では、課題は先生作成の楽譜が配られました。日本で和声を学んだ人は、I度の第一転回形でローマ数字の右肩に数字の1をつける、などの記号をご存知と思いますが、ここはフランス式なので、バス音の下に和音の形を示す数字が書かれています。フランス式で和声の勉強をしたことはありませんが、和音の数字づけの基本は藝大のソルフェージュの授業で学んでいるので知っています。
ちなみにこの数字づけですが、フォルマシオン・ミュジカルの第二課程で学ぶ内容となっています。
さて、全員でその課題に取り組むことになりました。バス課題ですが、バス音に加え、ソプラノの最初の音と最後の音が指定されています。そしてバスの全ての音に5が書かれているので、全部基本形の和音ということがわかります。つまり、和音構成音が全てわかる状態です。
まず、バスの旋律を歌いました。歌うということを経験していなくてもここまでは容易に想像がつくかと思います。私も「なるほどね」と思って一緒に歌っていました。
「バス音を歌う」だけでは終わらなかった
続いてバス音とその和音構成音を歌いました。「ド ドミソ ソ ソシレ」みたいな感じです。
メロディーではないので歌いにくいと言えば歌いにくい。でも声にちゃんと出すことはできる。
この時「なるほど。フォルマシオン・ミュジカルでも聴くこと、歌うことを大切にしているけれど、それは全ての場面で大切なんだ」という気づきがありました。
他の学生さんたちは他の授業を通して歌うということに馴染んでいるからでしょうか、ごく当たり前に歌っていました。私自身、内心「あらー、これも歌うのー」とは思っていましたが、動揺せずに歌うことができました。むしろ解放感で満ち溢れて歌っていました。
歌うということは、自分の意思で音を出すこと。音を出す過程で自分の体を使うことでより「この音を出すんだ」という意識が高まります。これがピアノなどの楽器で弾くこととの違いです。
もちろん、この後その和音が長三和音なのか短三和音なのかの区別、I度なのかあるいはV度なのかなどを楽譜に書き込んでいます。
課題終了後は声部ごとに歌い、横の流れも歌うことで感じとっています。
バス音の上に乗る和音を歌う、とは何をしているのか
前の章の「ド ドミソ ソ ソシレ」を、もう少し分解してみます。
やっていることは3段階です。
- バス音を歌う
- そのバス音の上に立つ和音を、数字を見て頭の中で組み立てる
- 組み立てた音を、下から順に声に出す
たったこれだけ。でも、2と3の間に、和声の勉強でいちばん大事なものが挟まっています。
「書ける」と「鳴らせる」は別のこと
数字を見て「ソの上に5だからソシレ」と答えるのは知識です。楽譜には書けます。でも、そのシとレを声に出すには、声を出す前に頭の中でシとレが鳴っていなければなりません。
声は、頭の中で鳴った音しか出せない。
ここがピアノとの決定的な違いです。ピアノは、鍵盤を押せば鳴ります。頭の中で鳴っていなくても鳴ってしまう。だから「弾けた」ことと「鳴らせた」ことの区別がつかない。
歌うと、この区別がその場でつきます。出せなかった音は、自分の中で鳴っていなかった音。ごまかしようがありません。
こういう「音を出す前に頭の中で鳴らす力」を、内的聴覚と呼びます。ソルフェージュが育てようとしているのはまさにこれで、和声課題を歌うということは、和声の勉強を内的聴覚の側から始めるということなんです。
たとえばバスが「ド ファ ソ ド」と動く、いちばん基本のカデンツ。書くだけなら、I – IV – V – I と記号を置けば終わりです。でも歌うと、「ドミソ」から「ファラド」に移るときにドが共通音として残ること、「ソシレ」のシが次のドへ引っ張られること、そういうことが、規則としてではなく、喉の感覚として入ってきます。
転回形になると、歌うことのハードルが少し上がる
先日の課題は全部基本形でした。バスがそのまま根音だから、上に3度と5度を積めばよい。これが転回形になると、話が変わります。
バスがミで、数字が6なら、鳴っている和音はドミソの第一転回形。歌うには、ミの上にソとドを積む前に、「この和音の根音はドだ」と頭の中で一度立て直す必要があります。バスが第5音のときは、なおさらです。
数字を読んで書くだけなら、転回形も基本形も手間はほとんど変わりません。でも歌うとなると、根音が見えていない和音は声に出せない。書けることと鳴らせることの距離が、転回形でいちばんはっきり出ます。
私が学生の頃に「パターンで入れる」ことで済ませていた和声は、たぶんこの距離を一度も測らないまま終わっていたのだと思います。
歌ってみると、和声の「規則」が耳の問題に変わる
和声を習うと必ず出てくるのが禁則です。連続5度、連続8度、並達。「これはやってはいけない」と最初に覚えさせられて、課題を解くときはこれを避けることに神経を使う。
私もそうでした。禁則は「避けるべきもの」であって、「なぜ避けるのか」を耳で納得したことはなかった。
でも、声部を歌い分けてみると、様子が変わります。
2つの声部が5度でそろって動くと、それまで別々に歩いていた2本の線が、ふっと1本に溶けてしまう。独立していたはずの声が、独立でなくなる。連続5度が避けられてきた理由は、規則の本の中ではなく、この感じの中にあります。
規則は、音楽を縛るために作られたのではありません。過去の耳が「こう鳴ってほしい」「こうは鳴ってほしくない」と願った結果が、規則という形で残っている。歌ってみると、その耳に少しだけ近づけます。
書く・聴く・歌うを分けない──フォルマシオン・ミュジカルの発想
エクリチュールの授業で歌が出てきたことは、私にとっては驚きでした。でも、フランスの音楽教育の流れの中で見ると、たぶん自然なことなんです。
フランスでフォルマシオン・ミュジカルとエクリチュールの授業が別なように、日本でも和声とソルフェージュは別の授業ですよね。ただ、フランスの場合はそこに「歌う」ことを共通して入れ込んでいる。私自身が参加している音楽史や楽曲分析の授業でも、時折歌うことをやります。
しかしながらフォルマシオン・ミュジカルは楽典もソルフェージュも音楽史もまとめてやる授業です。聴くことから入って歌うことを通じて音楽を学んでいくものです。このように音楽を学ぶ初期のうちに総合的に学んでいるということから、別々の授業になっても歌うことが大切になってくるわけです。
その考え方で育った学生たちにとって、和声の授業で歌うことは特別なことではないのでしょう。「他の学生さんたちはごく当たり前に歌っていた」と前に書きましたが、あの光景はそういうことだったのだと思います。
どちらが正しいのではなく、目的が違う
ただ、分けることが悪いとは思いません。分けるからこそ到達できる精度があります。聴音を聴音として集中して訓練する時間は、それはそれで必要です。
問題は、分けたあとに、もう一度つなぐ場面があるかどうか。和声を「書く科目」として閉じてしまうと、耳と手と声がいつまでもつながらない。エクリチュールの授業で歌わされたのは、その「つなぐ」場面を、授業の中に最初から組み込んでいるということなのだと思います。
なぜ分けないのか、ソルフェージュとの関係については、こちらの記事に詳しく書きました。
→ ソルフェージュが意味ないと感じる理由とフランス式「一体の音楽基礎」
一人でも今日から試せる、和声を歌う練習
授業に出なくても、手元の課題集と自分の声があれば始められます。和声の実施課題のバス音全てに和音記号がついていることが少ないので、こちらを使うよりは和声聴音の課題の方が向いているかもしれません。聴音課題は和声課題として完成しているからです。この課題に使われている和音を紐解いて、その構成音を歌うのです。
手順
- バス声部を歌う。 まずはこれだけ。音名で歌います。
- 課題にある和音をよく見て、その和音の基本形を把握します。 そして転回形なのかどうかを判断し、和声記号をつけます。
- 今度はバス声部を1音ずつ止まって、その上の和音を声で積む。 「ソ、ソシレ」のように、バス音のあとに和音の構成音を下から順に。記号を見て、鳴るべき音を頭で組み立ててから声にします。
- 最後に課題を一声部ずつ歌う。 ソプラノ、アルト、テノールの順に。
この積み重ねで和声の感覚がつかめます。
うまくいかないとき
- 転回形で詰まるのは普通のこと。 根音を立て直す一手間が要ります。詰まった和音は、いったん根音から基本形で歌ってから、バスの音に戻ってみてください。
- 声域が合わなければオクターヴを移して構いません。 バスが低すぎれば1オクターヴ上で。目的は音程の正確さではなく、頭の中で鳴らすことです。
- 上手に歌う必要はありません。 「メロディーではないので歌いにくい」と前に書きました。歌いにくくていい。声に出せたかどうかだけが問題です。
ピアノを弾く人、教える人に返ってくるもの
和声を歌えるようになると、まず変わるのはバスを聴く耳です。左手が「伴奏」ではなく「和音の土台」として聴こえてくる。曲の中でバスが動いたとき、その上で何が起きているかが、弾く前に見えるようになります。
暗譜にも効きます。音の並びとして覚えていたものが、和音の流れとして覚えられるようになるからです。また、和音で暗譜をするので、暗譜が落ちた時に戻るきっかけが掴みやすいです。実際、私は「和音構成音はこれで、一番下の音はこれだったよな?」で演奏中に救われた経験があります。
まとめ
- 和声が身につかないのは、規則を知らないからでも、練習量が足りないからでもなく、書く前に鳴らしていないから
- バス音の上の和音を歌うと、「書ける」ことと「鳴らせる」ことの差が、その場で見える
- 書く・聴く・歌うは、本来ひとつの営み。フランスのエクリチュールの授業は、それを授業の中に最初から組み込んでいた
和声は、正解を作る作業ではなく、耳を作る作業だった。30年経って、ようやくそう思えるようになりました。
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