「先生、ソルフェージュって本当に必要なんですか?」

保護者の方や大人の生徒さんから、こう聞かれたことはありませんか。「基礎だから大事ですよ」とは答えたものの、心のどこかで「自分も本当はよくわかっていないかもしれない」と感じた──そんな経験のある先生は、きっと少なくないと思います。

正直に言うと、私もそうでした。音大受験のためにソルフェージュのレッスンに通っていた頃、やっていることが自分の演奏とどう結びつくのか、よく理解できていませんでした。「ソルフェージュは意味ない」と検索する人の気持ちは、私にはよくわかります。

今はフランスに住み、コンセルヴァトワールで音楽を学び直しながら、日本の方にフランス式の音楽基礎教育「フォルマシオン・ミュジカル」をオンラインで教えています。この経験から言えることは、「意味ない」と感じたのは、ソルフェージュそのものではなく”やり方”のせいだった、ということです。

この記事では、ピアノの先生に向けて次の3つをお伝えします。

  1. ソルフェージュが「意味ない」と言われる本当の理由
  2. 楽典とソルフェージュの違い、そして「その違いをあえて作らない」フランスの考え方
  3. 30分のレッスンの中で、明日から試せる小さな一手

読み終えたときに、「必要ですか?」という問いに自分の言葉で答えられるようになっていれば、この記事の目的は果たせたことになります。

「ソルフェージュは意味ない」と言われるのはなぜか

まず、批判の中身を正面から見てみましょう。ソルフェージュに向けられる不満は、だいたい次の3つに集約されます。

1つ目は、「ソルフェージュ的な演奏」という言葉が持つニュアンスです。 音楽の世界でこの言葉が使われるとき、たいていほめ言葉ではありません。音もリズムも正確、でも何も伝わってこない。そういう演奏を指して「ソルフェージュ的」と言うことがあります。つまり、ソルフェージュは「正確さ」と結びついてはいても、「音楽らしさ」とは結びついていない、というイメージがあるのです。

2つ目は、試験のための訓練になっていることです。 音大や音高の受験科目としてのソルフェージュには、聴音(ちょうおん:弾かれた音を聴き取って楽譜に書く)や新曲視唱(しんきょくししょう:初めて見る楽譜をその場で歌う)があります。合否を分ける以上、課題はどうしても「ふるいにかける」ためのものになりがちです。実際の曲にはまず出てこないような不自然な跳躍や、わざと聴き取りにくく作られたリズム。そうした課題を解けるようになることが、音楽を深く理解することと同じかというと、そうとは言えません。

3つ目は、曲と切り離されていることです。 ソルフェージュの時間に扱う音の並びは、多くの場合「課題」であって「作品」ではありません。そこにはフレーズも、表情も、文脈もない。だから訓練の成果が、レッスンで弾いているショパンやモーツァルトに直接つながっている感覚が持てないのです。

批判されているのは「ソルフェージュ」ではなく「やり方」

ここで大事なのは、この3つの不満がどれも、ソルフェージュという営みそのものへの批判ではないということです。批判されているのは、「正確さだけを追う」「試験のために特化する」「曲から切り離す」という、ある特定のやり方です。

私自身の経験をお話しします。受験のための聴音は、実は得意なほうでした。ただ、そこで書き取っていたメロディーは、ただ音が弾かれているだけのもので、音楽的な表現は何もありませんでした。得意ではあったけれど、意味を感じられなかった。ソルフェージュのレッスンでやっていることが自分の演奏にどう結びつくのかは理解できないまま、「レッスンが必要だから」という理由でやっていた気がします。

しかも当時の私はリズム感があまりよくなかったのですが、そのリズム感を直すような働きかけは、ソルフェージュのレッスンの中では特にありませんでした。課題はこなせる、でも弱点は放置されている。これでは「意味ない」と感じても無理はないと、今ならわかります。

ソルフェージュは必要か──この問いに答えるには、まず「どんなソルフェージュか」を問い直す必要があるのです。

そもそもソルフェージュとは何か──視唱・聴音・リズムの本来の目的

ソルフェージュ(solfège)という言葉は、もともとイタリア語の「ソルフェッジョ」から来ています。ドレミの「ソ」と「ファ」を組み合わせた言葉で、階名で歌うこと、つまり「楽譜を声に出して歌う」ことが原点です。

現在の日本で「ソルフェージュ」と呼ばれている内容は、おおむね次の要素で構成されています。

  • 視唱(ししょう):楽譜を見て、楽器を使わずに歌う
  • 聴音(ちょうおん):聴いた音やリズムを楽譜に書き取る
  • リズム練習:楽譜のリズムを手拍子や声で正確に再現する
  • 読譜(どくふ):楽譜を速く正確に読む

こう並べると「メニューの一覧」に見えてしまいますが、この4つはばらばらのものではありません。すべてが、ひとつの力に向かっています。

それは、頭の中で音を鳴らす力です。専門的には「内的聴覚」(ないてきちょうかく)と呼ばれます。楽譜を見た瞬間に、まだ弾いていないのに音が頭の中で聴こえる。逆に、聴いた音楽が頭の中で楽譜の形になる。この双方向の変換ができる人は、初見が速く、暗譜が安定し、そして何より「自分がどう弾きたいか」を音で先に思い描けます。

視唱は「楽譜→音」の変換を鍛え、聴音は「音→楽譜」の変換を鍛えます。リズム練習は時間の流れを体に入れ、読譜は変換の速度を上げる。目的地が同じだからこそ、4つはセットになっているのです。

ピアノを教える先生なら、思い当たる生徒さんがいるはずです。楽譜を見て、指が動いて、音が出る。でもその音を「聴いていない」。頭の中に音がないまま、目から指へ直接信号を送っているような弾き方です。こういう生徒さんに足りないのは指の訓練ではなく、まさに内的聴覚です。ソルフェージュが本来担うべきなのは、この部分なのです。

楽典とソルフェージュの違いは「理論と実践」──で本当にいいのか

ここで、もうひとつよく検索される疑問に触れておきます。「楽典とソルフェージュは何が違うのか」という問いです。

一般的な説明は、こうです。


楽典ソルフェージュ
何を扱うか楽譜のルール、音程、音階、和音、調、用語などの知識聴く・歌う・読む・リズムをとるという実技
どう学ぶか教科書を読み、問題を解く声と耳と体を使って訓練する
一言でいうと理論実践

「楽典が教科書で、ソルフェージュが練習問題」という説明を見かけることもあります。この区分は、決して間違いではありません。日本の音楽教育では長くこの形で教えられてきましたし、受験でも「楽典」と「ソルフェージュ」は別の科目です。

ただ、ピアノの先生の立場でこの区分をそのまま受け取ると、ひとつ困ったことが起きます。

分けて教えると何が起きるか

楽典を「知識」として教え、ソルフェージュを「訓練」として教えると、その2つが生徒の中でつながらないことがあります。

たとえば、楽典の問題集で「この調の属七の和音を書きなさい」は解ける。でも自分が弾いている曲の終わりに、その属七の和音が出てきていることには気づいていない。「ここで音楽が”帰ってきた”感じがするのは、この和音のせいなんだ」という実感がない。

あるいは、聴音の課題で四分音符と八分音符の組み合わせは正確に書き取れる。でも自分の曲の中で同じリズムが崩れていることには気づかない。

知識はある。訓練もしている。でも演奏に反映されない。この「反映されなさ」こそが、「ソルフェージュは意味ない」「楽典なんて役に立たない」という感覚の正体だと、私は考えています。

問題は楽典やソルフェージュの中身にあるのではなく、それらが「曲」と別の場所に置かれていることにあります。そして、この置き方を根本から変えた国があります。それがフランスです。

フランスでは楽典とソルフェージュを分けない──フォルマシオン・ミュジカルという考え方

フランスの音楽学校「コンセルヴァトワール(conservatoire)」には、かつて日本と同じように「ソルフェージュ」という科目がありました。それが1978年、「フォルマシオン・ミュジカル(Formation Musicale)」という名前に改められます。直訳すれば「音楽の形成」、つまり「音楽家としての土台づくり」です。

これは単なる名前の変更ではありませんでした。

ここで少し注意が必要なのですが、フランスのソルフェージュは、もともと日本のものとは少し違っていました。音の高さとリズムを正確に読む・書く・歌う訓練だけではなく、音楽の背景知識もある程度含んでいたのです。それでも改称が必要になったのは、「楽器の奏者は、自分が演奏する楽器以外のことも知る必要がある」という考えからでした。

ピアノを弾く人がピアノの楽譜だけを読めればいい、という時代ではなくなった。オーケストラの響き、声楽のフレーズ、他の楽器の書法、そして作品の構造や歴史。演奏家として音楽に向き合うには、そうした全体を知っていなければならない。音楽そのものを素材にして、聴くこと・歌うこと・読むこと・理論を知ること・楽曲の構造や歴史を知ることを、ひとつの授業の中で一体として扱うフォルマシオン・ミュジカルは、この考えから生まれました。

日本の感覚で言えば、楽典・聴音・視唱・楽曲分析・音楽史をひとつの授業にまとめたようなものです。ただし「まとめた」というより、「もともと分けるべきではなかったものを、分けるのをやめた」と言うほうが実態に近いと思います。

「課題のための曲」ではなく「実際の楽曲」を使う

フォルマシオン・ミュジカルの授業の素材は、実際の作品です。バロックの舞曲でも、ロマン派の歌曲でも、20世紀の管弦楽曲でもかまいません。それを聴いて、「拍子は何か」「どんな楽器が鳴っているか」「どこでフレーズが切り替わるか」「調はどう動いたか」を耳で追いかけます。聴き取った旋律の一部を歌ったり、リズムを書き取ったり、使われている和音を楽譜の上で確かめたりもします。

誤解のないように書いておくと、最初から書き取り的な聴き方をすることもありますし、訓練のために「課題として作られたもの」がまったく使われないわけでもありません。実際の曲を、最初からの譜読み訓練の素材にすることもあります。やっていること自体は、日本のソルフェージュと重なる部分が多いのです。

違いは、その素材です。課題のために作られた曲ではなく、実際に存在する作品を使う。聴音も視唱も楽典も出てくるのですが、それらは「この曲をもっと深く理解するための道具」として登場します。書き取った旋律には作曲家がいて、フレーズがあり、その先に演奏がある。訓練の成果が演奏に結びつかない、という感覚が起きにくいのは、このためです。

日本式のソルフェージュとの違いを、あえて一言にすると、こうなります。

  • 日本式:課題で訓練を積んでから、曲に応用する
  • フランス式:実際の曲を素材にして、その中で訓練する

順番が逆なのです。

どちらが正しいのではなく、目的が違う

ここで強調しておきたいのは、日本のソルフェージュが「間違っている」わけではない、ということです。

短時間で読譜力と聴取力を効率よく鍛えるという目的なら、課題を使った日本式の訓練は非常によくできています。受験という明確なゴールがあるなら、なおさらです。実際、私も受験のソルフェージュで鍛えられた聴音の力には、今でも助けられています。

フォルマシオン・ミュジカルが目指しているのは、それとは少し違う場所です。「音楽を、音楽として理解できる人を育てる」こと。効率は日本式に劣るかもしれません。でも、「意味を感じられない」という問題は、この方法だとほとんど起きません。だって最初から曲を扱っているのですから。

どちらが正しいかではなく、何のためにやるかで選ぶ。ピアノの先生が自分の教室でソルフェージュをどう扱うかを考えるときも、この視点が役に立つはずです。

コラム:知識が「つながって出てくる」授業

私は今、コンセルヴァトワールで楽曲分析と音楽史の授業を聴講しています。年度はじめに「音楽史の授業に出たい」と先生に言ったら、「でもあなたはもう色々知っているでしょ」と言われました。確かに一通りの知識はあります。でも、それをどう伝えるかに悩んでいたので、「先生がどんな風に伝えているのかに興味があります」と正直に言って、参加させてもらいました。

この先生の授業は、色々なことに造詣が深く、あちこちから知識が飛び出してくるんです。もう玉手箱のよう。こんな授業、日本では受けたことがありませんでした。

設備の話ではありません。知識の流れ出る方向が全然違うのです。ひとつの曲の話をしていたはずが、思いついたように次から次へとさまざまなことが繋がって出てくる。和声の話が歴史につながり、歴史が演奏習慣につながり、また楽譜に戻ってくる。

これが「分けない教育」の実感だと思っています。楽典・分析・歴史が別の引き出しに入っているのではなく、ひとつの曲を前にしたときに全部が同時に動き出す。フォルマシオン・ミュジカルが育てようとしているのは、こういう頭の使い方なのだと、聴講しながら何度も思いました。

ピアノの先生がレッスンに取り入れるなら──30分の中でできる3つのこと

「フランス式がいいのはわかった。でも自分の教室は週1回30分のピアノレッスンで、ソルフェージュの別枠なんて作れない」

そう思われた先生に、お伝えしたいことがあります。別枠は要りません。 フォルマシオン・ミュジカルの発想は、「曲の中で耳と頭を使わせる」ことなので、ピアノのレッスンそのものの中に埋め込めます。しかも、どれも数分で済みます。

1. 新しい曲に入る前に、その調で短いフレーズを聴かせて真似させる

新しい曲を渡すとき、いきなり楽譜を読ませるのではなく、まず先生がその曲の調で短い旋律を弾いて、生徒さんに歌わせる(または弾き返させる)ところから始めます。曲の冒頭の2小節でもいいですし、その調の音階の一部でもかまいません。

これだけで、生徒さんの頭の中にその曲の「音の世界」が先に用意されます。楽譜を読み始めたとき、目から指ではなく、耳を経由して指に信号が届くようになります。1〜2分で終わることですが、「読む前に聴く」という順番を体に覚えさせるには十分です。

2. 楽典の知識を「その曲の中」で発見させる

楽典を教科書で教える代わりに、いま弾いている曲の中で問いかけます。

  • 「この曲、何調だと思う? どうしてそう思った?」
  • 「最後の和音、なんだか”帰ってきた”感じがしない? なぜだろう」
  • 「この4小節と次の4小節、どこが同じで、どこが違う?」

答えが出なくてもかまいません。問いを持ったまま弾くことに意味があります。「調」「主和音」「フレーズ」という言葉は、生徒さんが自分の耳で気づいたあとに与えると、知識として定着しやすくなります。順番が逆になるだけで、同じ楽典の内容が「役に立つもの」に変わります。

3. あえて間違えて弾き、「どこが違った?」と耳に問いかける

生徒さんが弾いている曲を、先生が一箇所だけ変えて弾いてみせます。音を一つ変える、リズムを一つ変える、あるいは強弱を逆にする。そして「どこが違った?」と聞く。

これは形を変えた聴音です。ただし課題ではなく、生徒さん自身の曲で行う聴音です。自分の曲だから集中して聴きますし、「違いに気づけた」という体験は、「自分の演奏を自分の耳で聴く」習慣への入口になります。

私自身、まだ言葉にしきれていない部分もあるのですが、ソルフェージュ用の課題を聴かせるよりも、本物の音楽を聴かせるほうが、生徒さんの集中の質が違うと感じています。

この3つに共通しているのは、「ソルフェージュの時間」を作るのではなく、ピアノのレッスンの中に、耳を使う瞬間を差し込むことです。これがフォルマシオン・ミュジカルの考え方を、日本のピアノレッスンに翻訳したときの形だと、私は思っています。

「必要ですか?」と聞かれたときの、先生の答え方

最後に、冒頭の問いに戻ります。「ソルフェージュって必要ですか?」と聞かれたとき、先生はどう答えればいいでしょうか。

「基礎だから必要です」という答えは、間違ってはいませんが、相手の疑問には答えていません。相手が本当に聞きたいのは、「それをやると、うちの子(私)の演奏はどう変わるのか」だからです。

私なら、こう言い換えます。

「ソルフェージュは、楽譜を読むための訓練というより、楽譜の先にある音を、弾く前に頭の中で聴けるようになるための時間です。それができると、譜読みが速くなるだけでなく、自分がどう弾きたいかを先に思い描けるようになります。だから、ピアノとは別のことをやっているのではなく、ピアノを弾く力そのものを育てているんです」

そして、こう付け加えます。

「うちの教室では、ソルフェージュを別の時間に切り分けるのではなく、いま弾いている曲の中で耳を使ってもらうやり方をしています。だから”ソルフェージュの宿題”は増えません。その代わり、レッスンの中で”聴く”場面を少し増やしています」

この説明ができるようになると、先生自身の中でも「なぜやるのか」がはっきりします。そしてそれは、「意味ない」と言われたときに揺らがない土台になります。

まとめ

この記事の要点を3つにまとめます。

  1. 「ソルフェージュは意味ない」の正体は、やり方の問題。 正確さだけを追い、試験に特化し、曲から切り離されたソルフェージュは、たしかに演奏に結びつきにくい。でもそれはソルフェージュそのものの欠陥ではない。
  2. 楽典とソルフェージュは「理論と実践」と分けられるが、分けたままにすると演奏に反映されない。 フランスでは1978年に「ソルフェージュ」が「フォルマシオン・ミュジカル」に改められ、「奏者は自分の楽器以外も知る必要がある」という考えのもと、楽典・聴音・視唱・分析・歴史を実際の曲を素材に一体として学ぶ形になった。
  3. ピアノのレッスンの中で耳を使わせれば、別枠のソルフェージュは要らない。 曲に入る前に聴かせる、楽典を曲の中で発見させる、あえて間違えて問いかける。この3つは30分の中で十分にできる。

どちらが正しいのではなく、目的が違うだけ。その視点を持ったうえで、先生ご自身の教室に合う形を選んでいただければと思います。

私はフランスに暮らしながら、コンセルヴァトワールで音楽を学び直し、日本の方に向けてフォルマシオン・ミュジカルのオンライン講座を開いています。この記事で書いた「曲の中で楽典と耳を一体で学ぶ」ということを、先生ご自身が実際の音で体験してみたい方は、メルマガで続きをお話ししていますので、のぞいてみてください。

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