先日、現代作曲家の作品を、楽譜付きで聴く機会に恵まれました。楽曲分析の一環だったのですが、楽譜を見ながら演奏を聴けるというのはとても貴重な経験をさせていただいたなと感じています。

その楽譜を手に取ったとき、まず驚いたのが「大譜表が二段重なっている」という点でした。最初は2台ピアノの楽譜かと思いましたが、その演奏が行われた部屋にはピアノが1台だけでした。「連弾なのかな?」と思っていましたが、奏者は1人。つまり、1人のピアニストが2つの大譜表を同時に演奏していたということになります。

演奏後に演奏者の話が少しありましたが、「譜読み用にメガネを新しく作ったし、それでも暗譜しないと到底弾けなかった」とのこと。その曲はリズムや音の配置が非常に複雑で、聴いていて楽譜を追うのも大変でしたが、演奏でも譜面に目を落としている余裕がないのは納得です。そして譜読み段階でのソルフェージュ力がなければ、そもそも音の関係性が掴めないような作品だったのです。

「見ただけでは弾けない、見ながらでは弾けない」と聞いて、私は少しホッとしました。なぜなら、かつてメシアンの作品に取り組んだ時、私自身も同じ経験をしたからです。あの複雑な和音構造の中で、部分的ではありましたが「これは覚えないと指が動かない」と感じたのです。

今回の作品の作曲者もフランス人で、響きや音の運びにはどこかメシアンを彷彿とさせるものがありました。色彩感豊かな和声、不規則な拍節、そして時間の流れそのものに揺さぶりをかけてくるような感覚。演奏者が「音を読む」のではなく、「音楽を記憶に浸透させて演奏する」必要があるのも納得です。

楽譜は音楽の設計図。でも、建築図面を見ながら家を建てるように、楽譜を見ながら演奏するには、設計を身体化する力が必要です。だからこそ、ソルフェージュは単なる音の読み取り訓練ではなく、音楽の本質を捉え、内面化する手段なのだと改めて感じました。