ピアノを始めたきっかけ

 

東京近郊のサラリーマン家庭に生まれ育ちました。4月生まれで4歳になる直前に幼稚園の年少組に入園、その幼稚園の教室で先生が弾いているピアノを聴いたのが、私のピアノとの出会いでした。クラスの友達の家にも同じようなピアノがあり、それを鳴らして楽しかったという記憶があります。その友達はおもちゃのピアノと本物のピアノの音の違いがわからなかったのですが、私にはわかりました。どうしてもこっちがいいと思っていました。

そして、5歳になった直後、待ちに待った最初のピアノのレッスンで楽譜の読み方を習いました。ドレミファソの鍵盤の位置と共に習いましたが、その時から音の高さをきちんと認識、記憶していました。つまり、先天的な絶対音感があったということになります。その頃は、ピアノを習う人みんながこういう音感を持っていると信じ切っていました。持ち前の器用さで学習は順調に進みました。

 

最初の先生の下での小事件 後にフォルマシオンに惹かれる引き金となるもの

 

最初のピアノの先生は、ソルフェージュをきちんと教えていたし簡単な和音づけも教わりました。しかし、先生の教え方が私の知識欲、学習欲について行かれないという事件がおきました。

ソナチネアルバムを始めた時のこと、第一楽章のソナタ形式の再現部が来た時「あ、ここが区切りだね」と言ったら楽章の最後をさして「区切りはここ」と、あんた馬鹿じゃないの? といった口調で怒られました。その時、私はソナチネの1楽章の中での区切りを自分で発見していたのですが、先生の頭にはソナチネという楽曲の中での区切りしか頭になかったのです。

今の私が生徒さんにそういうことを言われたのなら楽曲形式の話、この場合はソナタ形式の話をします。もしかしたら先生は楽曲形式を知る必要性を感じていなかったのかなと思いますが、少なくとも怒られるのは論外ですよね。

その後、ヘンデルの「主題と変奏」を学習した時、最初の主題の四分音符の単純なメロディーが弾けなくて「あなたは四分音符すらきちんと弾けないから」とテクニック不足と認定されて、自分の実力からしたら相当に易しすぎるエチュードを与えられました。不本意すぎて、その練習もつまらなく、ピアノを練習しない日が続きました。後から考えれば、その頃、バッハを全くやらせてもらえなかった(恐らく先生の頭にはバッハをやるということがなかった)ので、バロックの音楽の歌い方を経験してなくて、弾けないのは「歌い方を知らない」からだったのですが。

 

新しい先生と新しい音楽の世界

 

その後、先生はご主人の転勤で遠くに引っ越して行きました。「ちょっと遠いけどいい先生だから」と紹介された先生(電車とバスを乗り継いで片道1時間半かかったので、小学生の習い事としてはかなり遠い先生でした)は、私をまずバッハと出会わせてくれ、バルトークとも親しむこととなりました。楽典を一通りまとめてレッスンして下さるなど、音楽の知識面でも充実していきました。

私の持っていた先天的絶対音感をおもちゃ代わりにされたのには閉口しましたが、それ以外、特に大きな不満もなく過ごしていました。しかし、学校の勉強との両立に悩むようになり、そして手が小さいという私の欠陥もあって「そろそろピアノはやめようかな」と思う日々でした。

 

演奏活動をしている先生との出会い

 

そんなある日、発表会前に一度だけレッスンをしていただいた、ウィーン留学経験のある演奏活動をしている北川暁子先生にずっと定期的にレッスンを受けないか? という話をいただきました。ピアノはやめようかなと思っていたところだったのですが、そういう先生の弟子になれるということは、それだけ私がいい音楽を演奏しているからだと気持ちを切り替え、ピアノを続けることにしました。先生のレッスンは、私の持ち味を生かした「自分の演奏をしなさい」というレッスンでした。

そしてまだ本格的に和声の学習をしていない段階でも、音楽の構成や根拠ある歌い方を教えてもらえました。今思えば、フォルマシオン・ミュジカルで大切にしていることを、それとなく実践しているレッスンだったと感じています。バッハの組曲をやった時には「組曲に出てくる舞曲について調べてくるように」という宿題が出されたり、ピアノの弾き方のみならず音楽を捉えられるようなレッスンをしていただいていました。

音楽大学のピアノ科は無理かな、と思いつつも、憧れの気持ちを抑えることができず、北川先生が当時非常勤で教えていた武蔵野音楽大学ピアノ科に進学しました。

 

大学進学後の暗い日々

 

ところが、先生の持ち枠では私を学生として迎えることができず、結果的には2年間他の先生の下で修行をすることになりました。

その先生は、ご自身の演奏のコピーをさせたいのではないかと思うようなレッスンをなさってて、私の演奏を「あなた、ここはこんな風(私の演奏とは少し違う)だからこういう風にして」というのを私は先生の2つの演奏の差を読み取って自分なりの表現でやったのを、先生はその通りに弾けないとOKを出さず、演奏はどんどん縮こまり、今まで小さい手で弾いていた割りに問題を起こさずにいた手を傷め、どんどん弾けなくなり…。

そういう私を見るに見かねた大学の先生が「北川先生の下に戻りなさい」と言ってくださったのをきっかけに、北川先生のクラスで残りの学生生活を送ることとなりました。

ソルフェージュ大好き

 

子供の頃からソルフェージュは大好きでした。初見視奏が苦手だった(今思えば、手が小さいため鍵盤の所定の場所に手を届かせるのに人一倍の努力が必要だったため、見てパッと弾くのに向かなかった)とはいえ、受験の時も、大学の時も楽しんでレッスン、授業を受けていました。当時読んだソルフェージュについての本には「フランスでは今、フォルマシオン・ミュジカルと呼ばれている」とありましたが、ソルフェージュとの違いは説明されておらず、私もそれ以上追求せずに過ごしていました。

今思えばこの当時にもう少しフォルマシオン・ミュジカルについて追及していれば今はもう少し違った形で勉強していたかなとは思いますが、そんなことは今となってはもう後の祭り。

卒業後の進路に悩む

 

卒業後はどうしようか。音楽教室に就職してもいいけれどこのまま埋もれたくない、でもピアニストとして活動するには手が小さすぎる、と悩んだ結果、演奏家の視点をもった音楽学者になるのはどうか? と北川先生に言われました。幸い両親の経済的な協力はまだ続けてもらえそうだったので、一念発起して受験をし東京藝術大学の楽理科に籍を置くことにしました。
楽理科で音楽史を中心に、幅広く音楽を見つめる機会をたくさん与えてもらいましたが、研究者としての洞察力にかけていたこともあり、さらには身体を壊し、最終的には大学院を経て研究者になるという道を断念せざるを得なくなりました。